パスポートとアイデンティティーは必ずしも一致しないという現実

教育機関が多いボストンでは、教育プログラムは若者から40〜50代のエクゼクティブ向けのものまで充実しています。そして比較的、年齢層が高いプログラムに関しては、本人だけでなく、その家族やパートナーも参加できるようなソーシャルな会があるのが面白い点です。

そんな会でこんな人に会いました。
夫婦でスペイン語で会話しているのが聞こえ、南米の顔つきをしている人なのですが どこの国の出身かきくと、チリだといいます。

1970年代のチリの軍事独裁体制時代に、親がスウェーデンに亡命し、当時生まれて2ヶ月だった彼は、26歳になるまでスウェーデンで過ごしました。私も知らなかったのですが、この頃のチリは国民の1/10に当たる100万人が国外亡命し、国民の1/4のGNPが「全く」なくなるという異常事態にあったそうです。
なんとなく、シリアを連想させます。。。

さて、私が最初に彼にどこの出身か(何人か)を聞いた時は彼はチリ、答えました、でも26年もスウェーデンに住んでいれば故郷はもうスウェーデンじゃないのかな?と思い、
”上手く、スウェーデンの生活にはとけこめた?あなたはもうスウェーデン人でしょう?”ときくと、

彼 ”母親は全くとけこめずに苦労していたよ。スウェーデンっていうのは、人種差別的な国なんだ。全て父親のせいだといつも嘆いていたよ、政治亡命だったから”

私 ”別にスウェーデンが特別というわけではなくヨーロッパ全体的にそうなんだと思うけど。。”

彼 ”そうだね。僕はスウェーデンの学校に通い、言葉もネイティブだ。電話で誰かと話したら誰もが僕をスウェーデン人だと思うよ。軍隊にもいったし、スウェーデンがどこかと戦争になれば軍にも参加するよ。でも、それは何かあった時、僕が法的に戻れる場所を確保するためなんだ。僕はスウェーデンのパスポートをもっているけど、スウェーデン人かって聞かれれば、そう聞かれるたびに、自分はスウェーデン人ではないと思いださせられることになる。”

北欧は白人、金髪の人が多いですよね、そこで南米系の浅黒い肌の人をみて、地元の人は彼をスウェーデン人とは認めないといいます。電話では何も問題なく受け入れられるのに、顔を合わせた途端に、差別にあう。。。

彼 ”仕事の仕方が気に入らないとか、マネージメントが下手だとか言われて差別されるのなら受け入れるよ。でも僕の顔、肌の色がだめだといって、受け入れられないのは僕には耐えられないことなんだ。26歳から6年ほどチリに住んだんだけど、やはり自分はチリ人なんだと確信したよ。だから僕がスウェーデン人かって聞かれれば、いや僕はチリ人だと答えるのさ、たとえチリのパスポートをもっていなくてもね。”

人は思った以上にビジュアルに左右させられます。しかし、実際、ヨーロッパにはそれでも、アジア系やアフリカ系、南米系といった典型的な白人のイメージから外れたヨーロッパ人も多く住んでいます。

欧州での難民の増加に伴い、これから10年、20年後には彼のような人達が続出するのでしょうか。
そしてその時、シリアはどんな国になっているのか。。。
パスポートというものと自分のアイデンティティーを切り離して考える、そこに固執しなければ、人は自由になれるのかもしれません。

そんな彼にじゃあ、アメリカは居心地がいいでしょう、ときくと、
”僕の住んでるアリゾナ州は人種差別がこれまたひどいところなんだ”
やれやれ。。。

難民受け入れにみるドイツ人の哲学

今年は年初から次々と問題続きの1年ですね。ISの問題、ギリシャ問題が一息ついたと思ったら、中国の株下落、ヨーロッパの難民問題。。。
以前、このブログで”ヨーロッパにおける難民増加の現実” というのを書いた時には、オーストリアで70人以上の難民が犠牲になったバスがみつかる直前のことでしたが、それから2週間もたたないうちに、ドイツは大量の難民の受け入れを表明しました。

ドイツのメルケル首相の最大の功績は、難民の受け入れを早急に決断したということだと思います。すばやい決断ができたのも、優先順位がはっきりしているのだからではないでしょうか。各メディアの論調ではもちろん経済的に余裕があるといった視点や、ドイツは労働力を必要とするといった(特にシリアからの人達は学歴や一定以上のスキルを持った人達が多い)、数字に重きをおいた理論を展開している記事をよく見ますが、私はそれ以上にドイツが過去の歴史を振り返った時の反省から”人道主義”の重要性が彼女を決断させたのではないかと思います。

そして、この感覚は彼女だけでなく、ドイツ人の中での共通の認識なのではないかと感じたのは、ミュンヘンに住むこんな人の話を聞いた時です。
”多くの人は難民の受け入れに決して否定的ではないよ、特に僕たちは歴史的にも背負っているもの(ナチス)があるから。でも難民の中にはコソボやアルバニアといった昔は確かに紛争地域だったエリアの人達で今はそれほど困っていなくても、とりあえずドイツに来たいとか、難民制度を悪用する人達が数パーセントいるのは事実。だからといって本当に困っている人たちを助けることは問題にはならないし、問題にするべきではない。”

非常に多くの難民をうけいれることで、最右翼層からのテロを含む、嫌がらせというのが外国人に対して増えるというリスクはあります。スキルのある難民をうまく経済に取り込むことができれば、経済的には潤ってもドイツ人との仕事の奪いあいから、治安が悪化する地域も多くなるかもしれません。又たとえシリアからの難民を一時的に受け入れたとしても根本的な解決にはならないとも言われます。

それでも、今現状目の前にいる困っている人達に手を差し伸べるという選択をしたドイツ。選択が正しいか、否かという話以前に、メルケル首相の信念、哲学、そしてリーダーシップを強烈に感じます。

さて、日本は移民にも厳しいですが、難民の受け入れも非常に厳しい国です。
国際協力という点で考えた時、他国の争いに軍事という形で支援する以上に、日本に一番ふさわしい国際貢献の形というのは実はこういった形を含めた人道支援なのではないかと思うのですが。

関連記事:
ヨーロッパにおける難民増加の現実

鬱を乗り越えるには幸せな記憶を呼び起こすこと

最近、従来の考え方とは違ったガン治療や、抗生物質を含めた薬や病気の治療法というのが少しずつ広がっているのを感じます。それは、人が本来もっている免疫力や微生物を使ったり、瞑想のように、考え方や心のあり方をかえるということも含みます。そういう流れのなかで、従来の抗うつ薬ではない方法で、鬱を治す新たな可能性がMITの利根川教授らの実験で証明されました。
6月17日のMITニュースによると始めに楽しい経験をマウスにさせてその後そのマウスにストレスを与え鬱のような状態にしたのちに、そのマウスに事前に経験した楽しい記憶を思い出させる刺激を与えることで鬱状態が緩和されることを示唆しました。

日本では近年、うつ病の人が全ての年代で増えているといいます。ストレスが多い社会に住んでいるからとか、抗うつ薬が原因だとか色々いわれていますが、この方法だと従来の抗うつ薬と違って、副作用はほとんどないということです。

鬱の場合、肝心の幸福な思い出を思い出しにくい、という状態にあることが問題のようです。これはマウスを対象にした実験であり、人の場合はまだこれから、ということですが、外から何かの刺激を与えることで、幸福な思い出への回路ができるとしたら、もしかしたら、本人や家族、周りの人にも協力して状況を改善させることができるかも?

鬱の人に声をかける時は注意しないと、こちらがなんとも思っていない言葉にひどく落ち込んだり傷ついたりしてしまうことがあります。幸せか否かという感覚というのは個人差が大きいですし、人の思いというのも結構強いもので、え?あの人そんなに不幸だと自分で思っていたんだ、なんていうことがあるほど、他人から見た時、幸せだと思っても本人が不幸に思っている場合もありますし、その逆もありますよね。

幸せな思い出がたくさんあるほど、自分の状態もポジティブになるということだといえます。それが体調にも影響を及ぼしていることを考えると、まさに病は気から、ということが言えそうです。

関連記事:
病気に対する治療法がこれから変わっていくーTEDx Cambridge 2015 Spring よりー

外国にでて初めてわかる自国の状態

トルコ、ドイツ、イラン、オランダを旅したアメリカ人が、外国にでてみるといかにアメリカが世界から立ち遅れてしまっているのかということがわかる、ということを記事にして、彼は特にインフラの問題点、教育問題に関して言及していました。

逆に日本から世界にでてみると、少なくとも、物質的、サービスそしてインフラに関しては日本がどれだけ諸外国よりは整っているかということに気ずかされる場面が多いですが、確かにアメリカに住んでいると、本当に大丈夫?と思わせるほど、インフラが弱かったり、整備されていなかったりします。しかしインフラに関しては、作ったらおしまいというわけではなく、メンテナンスの問題もあり、長期的にお金と手をいれていなければならないことを考えると、日本も数十年後にそれだけの国の資金を継続的に投入できるのかということを考えると怖いものがありますね。。。

また教育に関しては、教育が格差を縮めるといわれますが、そもそも誰もが平等にレベルのいい教育をうけることができるという状態ではなくなっているという指摘もあります。その中で特にハイスキルの仕事をする人以上に、明らかに生活に密着した仕事、例えば水道、電気工事や、建築関連、車の整備等のエンジニアといった、特殊なスキルが必要な人達の教育が足りていない、もしくは人手不足というのはアメリカではあるようですね。日本では長く、終身雇用が続いたために、会社がある意味、職業を教えてくれる学校も兼ねていたような感じがしますが、長期雇用が崩れ、人材の教育というのを考えた時、一部大学の専門学校化というのもそれほど悪くはない選択肢に思えます。

一度自国をでてみると色々見えてくるものもかわりますよね。。。
ドイツ、オランダあたりと比べて、立ち遅れている感じをうけるのはわかるにしても、トルコやイランと比べてもアメリカ人がそういう気持ちをもったというのは結構すごい事に思うのですが。

アメリカに学ぶ失敗力?

アメリカにいてよくきくことは、失敗を恐れずどんどんトライしろということですが、えーそれで進めちゃうの?っていうくらいのレベルでも、市場にだして、答えは市場にきく、というスタンスを感じますよね。そうやって現場でどんどん改良、改善をしていく。走りながら、同時にバージョンアップしていくからスピードがあります。
小さな間違いを許してどんどん修正していけば、大きな間違いをおこしにくくなるという感じでしょうか。

一方、日本人は完璧を好み間違いがないように一歩ずつ着実に進みます。行動力がないのも、失敗を恐れるからなのだと思いますが、なぜ失敗を恐れるかといえば、社会の許容力がない、ということも大きいのではないでしょうか。間違いが起こると、必ず管理の問題が問われ、さらに間違いが起きないように入念に調整や修正がされていくわけですが、そんな日本の社会はやはり管理社会であり、組織が大きくなっても質を管理し、高い質をキープするようなことに関して、日本人は得意なんだと思います。
ところが、イノベーションが停滞している今の社会では、少なくとも経済活動においては0から1を立ち上げるような全く違うリーダーシップが問われます。

スタートアップの世界は、間違いがないように、完璧な製品やサービスができてるのを待っていたら、間に合いません。
いろんなことを並行してどんどんやっていかなければ、スピード勝負の世界で生き残ることはまず無理でしょう。
顕著なのはテック関連の分野でしょうが、先に数の世界を抑えたところが勝ちます。

アメリカにいると、中高生でもリーダーシップの重要性というのを学校生活の中で、目の当たりにします。それはスポーツなどの部活の中であったり、ディベートなどの授業でもありますが、リーダーというと、日本では誰かが、何かをリードする、支配する(?)というどちらかといえば、1対複数人という構図が浮かびますが、そういうことだけではなく、自分の進む道を、自分自身をリードしていくということにもつながるのでは?
何か新しいことをしようとすればそこにはいつも失敗はつきものです。失敗を減らすことはできても、失敗なくして前に進み続けることは不可能なのではないでしょうか? 失敗したら他人に迷惑がかかる、ということも当然頭をよぎりますよね。人に迷惑をかけてはいけないと教育されている日本だから、これだけ都会に人がいても、礼儀正しく、安全、快適に過ごせるのだとも思いますが、他人に迷惑を全くかけずに生きていくなんてことは不可能だとも感じます。

物事には大抵、いい面と悪い面があって、悪い部分があるから全てがダメとはいいきれず、ルールと規制でどんどんがんじがらめになった管理社会で、他者に対する許容性が失われていくのはさらに怖い事だと思います。